城堀の歴史

      
 湯河原町は北は北海道(稚内)まで1,421.8q。南は九州鹿児島まで約1,393.9q(鉄道距離)ほぼ日本の中心に位置する。
 関東地域西南端
 神奈川県の最西方地区にあって静岡県熱海市と小さな千歳川を境界として接している。この湯河原の中心が「我が城堀邑(むら)である」お隣は東南海岸に門川邑、西北に宮下邑、北東に鍛冶屋邑、に接し、昔時の歴史に比しなんの変化もない。海抜15bから200b城山土肥城跡の頂上が560b平坦地と傾斜地に住宅あり。
 裏山農耕地は蜜柑の畑秋は黄金の山四季を通じ緑深く前方相模湾を指呼に温暖にして風光明媚長寿の里と呼ぶ。この土肥城堀邑に何時の時代から人々が居住し邑が出来たのか知由もないが、神社仏閣等の縁起から推測すれば相当昔から人が住み邑が構成されていたように思う。
産土八幡神社拝殿               萬年山城願寺護国殿
 産土八幡神社拝殿
 
 萬年山城願寺護国殿
平安時代一二世紀(1108年)城堀邑(堀ノ内邑に八幡神社創建と神社史にあり)平安時代一二世紀土肥の豪族土肥次郎実平公が我が城堀邑に館を築き城願寺を持仏堂として此の地一帯を地領として納め栄えていた時代には当然人が住み邑が構成されていた事は想像に難くなく証明出来るように思う。
 相模風土記による萬次二年(1659年)江戸前期によれば土肥堀ノ内邑の記録あり更に江戸時代後期(1843年)城堀浅間神社に保管されている梵鐘に富士浅間大菩薩、相州堀ノ内村奉納天保三年辛辰六月吉日、西村和泉守昨と刻名あり。慶應三年(1867年)大政奉還王政復古徳川幕府倒れ、明治政府の御代となり、明治四年(1871年)廃藩置県によって足柄県となる。土肥堀ノ内も足柄県の行政区域に編入された。その当時どのような理由があったのか知由もないが、想像してみれば村人が日夜協議を重ねた結果堀ノ内邑より土肥実平公の城閣(館の堀の中)内にある集落だから城堀邑と改称した方がよかろうと、あまり深い根拠があった訳ではなかったように、推測する。協議一決し明治六年城堀村と改称され今日に至る。
 城堀村と」改名と時を同じくして明治六年七月三十日(1873年)足柄県に於いて城堀村神社を村社産土八幡神社と指定。
 土肥城堀村の区域は狭く明治中葉の頃でも近隣の集落に比し農耕地、住居者、人口少なく小さな村であった。住民は米麦雑穀を中心に養蚕蜜柑等生産、秋の収穫が終わると蒔山の蒔切の仕事などをして生計を補っていた。交通不便のため他との交流困難であり、自給自足の僻村集落であり村全体が一家族のような共同作業的一面も多々あったようにも思います。
 大正七年頃から(1981年)国鉄熱海線工事が始まり駅周辺及び城堀ガード構築鉄道線路施設によって城堀村は二つに分断され昔時の面影見る術もなく変容された。大正十二年九月一日関東大震災は言語に絶する大被害を受けた。倒壊家屋十戸、残る家屋三十戸数戸も半壊となり、道路、水路、宅地、田畑の石垣土手等全部崩壊する。この復興に当時の村人はどんなに、ご苦労されたか言葉では言えない心労があったと思います。復興の心意気と、気概の強さ労力には感嘆するのみである。
 大正十三年十月一日村人待望の熱海線が湯河原まで開通し、集落の人々に笑顔が蘇る。
 城堀村は駅が近く地の利を得て蜜柑の出荷条件が一番便利となる。
 従来長年に亘り船便利用のため吉浜や門川海岸船着き場まで朝早く山車や大八車で運搬した。この運搬の手間が省略され朝から夕方まで自分の都合の良い時間に貨物ホームに搬入することが出来た。
 熱海線開通と共に東京や横浜との交通が頻繁となる昭和の初期軍政華やかな頃、当地出身の二見太郎(陸軍大佐)の仲介で日露戦争当時からの上官を当城堀村に招聘別荘を建て、退役後の静養の地として居住された当時、城堀村は軍人の村と渾名が付くほど噂にあがったこともある。
 当時居住された方は、
1. 陸軍大将 谷林徳太郎閣下 城堀山之神314番地
2. 陸軍中将 星野金吾 閣下 城堀水上309番地
3. 陸軍大佐 二見仙太郎一等主計正 城堀水上302番地
当時周辺には普通住宅は無く最高の静養住宅地あった。この武人の尊い方々も、生命には限りあり、今は皆天寿を全うされ、其の面影もない現在は其の周囲に一般住宅やアパートが建ち並び、庶民の生活の場として賑わっている。
 昭和二十九年(1954年)湯河原駅下都市計画事業によって湯河原駅を中心として吉浜海岸135号(国道)線に接続する県道の拡幅工事も完了(昭和29年)。
 土肥の耕地も都市計画事業によって新幹線泉越トンネル工事残土を似って埋め立てし宅地となる。
 昭和三十五年頃町が過剰温泉の統合事業開始によって駅前都市計画地域に引湯温泉旅館の開業が始まる。商業者並に一般住宅も景気上昇によって急激な発展を遂げ著しく城堀村市区内の個数人口が膨張。昭和六十三年十月一日現在世帯数1,147戸人口2,871人(男1,384人、女1,477人)城堀村には古くから村の鎮守八幡神社が創建(1108年)境内には大樹楠欅外立派な守を形成。更に湯河原駅北方約500bの位置に萬年山城願寺(曹洞宗)境内に土肥次郎実平公お手植と伝えられる樹齢八百余年の大樹びゃくしんあり。昭和十四年九月七日天然記念物指定。
城願寺びゃくしん樹齢800年天然記念物指定 城山立石 城山より真鶴半島
城願寺「びゃくしん」
城山「立石」
城山より真鶴半島を望む
 城堀村西北3,700b、標高560bの山頂に土肥城址あり。風光絶景城山公園。現在城堀区域内には湯河原町庁舎、湯河原駅、湯河原郵便局、町立図書館、消防署本庁、商工会館、城堀会館(城堀区会、城堀簡易水道組合、生産組合、山林会、城堀老人会、町婦人会室等共同事務所として使用。外に大会議場、小会議場)あり。
 以上町庁舎をはじめ、各諸団体の主要な事業所あり。湯河原町の中心城堀村の今後益々の発展隆昌を誓い、古き史跡の保護保存に務め後世に伝承されることを乞い願ってやみません。     菅沼 勝義

菅沼勝義氏著「城堀邑の今昔を語る」(平成8年発行)より引用させて頂きました

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